ひのきのぼうの沼日記

そう、人生は沼だらけ

SixTONES京本大我への気持ちを見つめなおしてみた

京本さん ああ京本さん 京本さん

 

京本大我は人の思考回路を麻痺させ、語彙力を著しく低下させる天才だ。

 

私はSixTONESが好きだ。

推しメンは全員、みんな大好きなDDで、箱推しというやつだ。

彼ら一人一人の魅力を語れと言われれば、つたない日本語力ながら言葉にすることが出来る。

しかしその中で唯一、その魅力を上手く言葉にできないメンバーがいる。

京本大我だ。

彼を見たとき、彼の歌を聞いたとき、おそらく私の深層心理では「かっこいい」とか「このフレーズ最高」とかいう気持ちが芽生えているはずなのだが、

その気持ちが口元まで到達したときには、

 

京本さん ああ京本さん 京本さん

 

に変換されている。

 

ここまで書いて「冒頭に箱推しって言ってるけど、京本さん坦じゃねえか」と思われた方もいるだろう。

そうなのかもしれない。

でもこれが”正しい推しに対する好き”なのかがわからない。

他のメンバーに対する「好き」と京本さんに対する「好き」は違う。

 

私は基本的に彼らの応援をするときは祖母目線になる。

例えば慎太郎を見るたびに、とにかく「お金あげるから何か美味しいもの食べといで」と言いたくなる。

たまーに静岡に帰ってきた北斗に「そんなにいらないって」と言われても、帰り際に地元のおいしいものを沢山持たせてあげたい。

空港に迎えに行ったらジェシーのあの笑い声で「AHAHA。おばあちゃん超元気じゃん!」と言ってもらいたいから足腰は丈夫でいたい。

高地には「バイク気をつけなさいよ」と言いながら、もしかしたら自分もこっそりバイクについて勉強するかもしれない。

田中樹がふいに「なんか買ってあげるよ」と百貨店に連れて行ってくれたら、夜中に仏壇に手を合わせながらおばあちゃんは泣くだろう。

そう。彼らとは年に1回親戚連中で集まったときに、ワイワイガヤガヤ「TV見たよ」「CD買ったよ」と報告しあいたい。

そんな存在なのだ。

 

当初、京本さんもそんな気持ちで応援していた。

しかし今年に入ってから、

「京本さんにご飯食べといでなんて言えない」

「プライベートで年に一回も会いたくない」

「むしろステージ上やテレビの中の彼にしか会いたくない」

と思うようになった。

気持ちが冷めたのではない。

むしろ温度は高くなっている。

 

何か私の中での京本さん像を変えた出来事があるのではと思い返したら、あった。

 

今年1月、初めてSixTONESのライブを見に行った時だ。

ビギナーズラックでむちゃくちゃ京本さんを間近で堪能できる席を引き当てた。

しかしいざ近くに来るとキャーともアーとも言えず、だからと言って完全に地蔵になることも出来ず、「あっ実在している人間だったんだ」と思いながら、うちわを小刻みに振ることしか出来なかった。

あのときに、これ以上近づいたらダメだと気づいた。

 

その瞬間に京本さんは私の中で”宝塚”になったのだ。

 

彼の舞台は見に行きたい。

なるべく良い席では見たいが、明確な舞台と客席という一戦は欲しい。

京本大我という仮面をつけた京本さんを好きでいたいから、プライベートは知りたくない。

もし近くに行けるとなってもディナーショー以上の近さは必要ない。

多分それ以上近づいたらビックバンが起きて死ぬ。

これは戦争だ。

遠すぎたら生きていけない。

近すぎたら量子レベルで弾け死ぬ。

ちょっと何言ってるかわからなくなってきた。

こういうところだぞ京本大我

貴様は私の思考を麻痺させ、語彙力を低下させる。

ほら見ろ、こんなに書いているのに京本さんの良いところとか一つも書いてない。

ごめんな。

 

まだ私の理性が残っているうちに、京本さんの魅力を一つ上げよう。

 

彼は努力の人だと思う。天才ではない。

武器としている歌唱力も後天的なものだというのが推察できる。

天才肌が多いSixTONESの中でも努力の割合が多い人なのではなかろうか。

だから私はミュージカルでの彼をとても信頼している。

安心感はまだないと思う。けど、信頼できるミュージカル俳優だ。

じゃないと小池先生も彼を選ばないだろう。

今はニュージーズの幕が無事に開いてほしい。

 

そう願いつつ、SixTONESyoutubeに上げてくれた『すとらじvol.4』を見る。

 

 

 

あぁ今日も京本さんが京本さんしてて、とっても京本さんだ。